2035年のビジュアルプラクティスを考える公開リサーチデイ語る場へ。AIが加速するほど、“Invisible Things”を残す手触りが大事になる

2026年1月24日、多摩美術大学 八王子キャンパスで開催された

Public Research Day : Imagining Visual Practice in 2035(2035年のビジュアルプラクティスを考える公開リサーチデイ)に参加しました。

テーマは「ビジュアルプラクティスを、技法ではなく“社会の複雑さに向き合う文化的実践”として再定義する1日」。

正直、最初は尻込みしていました。

東京でのオフライン開催、そして「2035年」という大きすぎる問い。

それでも、「実践者の問いや戸惑いを公開しながら探究する場」という呼びかけに背中を押され、宮崎から飛び込みました。

この記事では、途中参加の私が“迎え入れられた”体験、
複雑さを単純化しないという感覚、
AIと人が描くことの違い、
そして「最悪の未来/最高の未来」を往復しながら残った問いを記録します。

目次

「行きたい」の次に来たのは、尻込みだった

このリサーチデイの告知を最初に見たのは、出村沙代さんのFacebookでした。

言葉に反応して、最初は「行きたい」と思った。
でも、その次に出てきたのは尻込みでした。

・東京でのオフライン開催
・ビジュアルプラクティショナー講座にも参加していない自分が行っていいのか
・そして何より「2035年のビジュアルプラクティス」という大きすぎるテーマ

普段、グラフィックレコーディングの仕事が増えてきて、
「グラレコとは何か」を自分の口で説明する機会も増えました。

そのたびに、先人の道を歩いている自分が、どこか不安になります。

「こんな私が説明していいのかな」
「間違ったことを伝えていないかな」

その不安は、正直、いつもそばにあります。

背中を押されたのは「握力を上げる場じゃない」という宣言

「2035年のビジュアルプラクティスを考える公開リサーチデイ」イベントページより引用

参加を決めたのは、呼びかけの文脈でした。

この場が目指しているのは、描く技術の獲得ではなく、

目的意識(Intention)/関係性の動き(Relational Dynamics)/変化の兆し(Temporal Change)

といった「目に見えない層(Invisible Things)」を扱い、文化として残していくこと。

ペンの握力を上げる”ような場は多い。

でも、目に見えない目的や関係性の変化を、どう扱い、どう設計し、どう次につなぐのか。

実践者のリアルな問いや戸惑いを、公開しながら対話する。

その姿勢に、私の中の「確かめたい」「ここに居てもいいのかもしれない」が反応しました。

そして1月、伊勢田麻衣子さんからお誘いをいただいたとき、心がすっと許した感覚がありました。

囲い込む場ではなく、実践者が集まる開かれた場。

そう思えたことで、私は自分に「行っていいよ」と言えた気がします。

急いで飛行機とホテルを取りました。

入口で迎えてくれたのは「グラフィック」の奥からそっと気配を感じる「人」だった

入り口前で迎えてくれたグラフィック

当日、私は宮崎から向かい、到着が遅れました。

開始10時に対して、会場に滑り込んだのは11時。

焦る気持ちを抑えながら、乗り継ぎ、最後はタクシーも使い、なんとか到着。

入口で最初に迎えてくれたのは、「人」ではなく「グラフィック」でした。

そこに人はいないのに、気配がある。

“お迎えするために心を込めて描かれた1枚”があるだけで、心がほどけていく。

「やっと辿り着いた」

「いよいよ始まる」

私はその時、グラフィックが“場の入口”として機能しているのを身体で感じさせてもらいました。

途中参加の私が「迎え入れられた」理由

里子さんとひろのさんお二人の連携や場への関わり方がとても素敵だった

途中参加の私は正直、「話の流れを追いかけなきゃ」という焦りがありました。

でも、ひろのさんと里子さんが壁一面に描いていたグラフィックレコーディングのおかげで、
断片的に聞こえる話が、声として流れ込んでくるような体験がありました。

普段は私自身が「描く側」にいることが多い。

だからこそ、遅れてきた人が「受け取る側」として救われる体験は新鮮でした。

さらに、清水淳子さんと出村沙代さんのトーク後に、お二人が“リストーリー”をしてくれた。

「私にはこう聞こえた」と巻き戻してもらうことで、1時間が戻ったような感覚。

グラフィックレコーディングは、視覚的な整理だけではない。

時間に遅れた人、身体的に離れていた人に、場の流れそのものを回復させる力がある。

私はまたしてもここで、感動を覚えるのでした。

複雑なものを「簡単にしない」——AIとの対比で残った感覚

友澤里子さん、反中ひろのさんが描いてくれたセッションのグラレコ(抜粋)

この日、私の中に深く残ったのが、

「複雑なものを、簡単にしないで、複雑なまま扱える」という可能性です。

私自身、AIに触れていると、ときどき

『(かぎかっこ)をつけられる感覚があります。

まだ煮え切っていない思い、探究したい問い、モヤモヤがあるのに、

「こういうことでしょ」「結論はこうだよね」と、括られてしまう感じ。

もちろん、ビジネスの現場では結論を出す必要があることも理解しています。

でも、本当にそれでいいんだっけ?

ここで括ってしまっていいんだっけ?

そう思う瞬間がある。

会場の様子。描かれたグラレコの前で集まって深掘りたい内容をシェア

複雑なものを複雑なまま扱うのは、居心地が悪い。もぞもぞする。

だけど「そういう状態なのだ」と、そのまま器に置けるのがビジュアルの価値なのかもしれない。

私はこの日、それを確かに触り、問いに輪郭がふっと湧き上がる瞬間が何度もありました。

批評が怖い。でも、そこから先に進みたい

友澤里子さん、反中ひろのさんが描いてくれたセッションのグラレコ(抜粋)

もう一つ、私にとって勇気が要るテーマがありました。

それは清水さんが投げかけてくださった「批判や批評がし合える関係を育む」ということ。

批判や批評がし合える関係を育てることは、私にとって正直、勇気がいることです。
批評されるのは怖いし、批評するのも怖い。
慣れていないから、なおさら身構えてしまう。

でも、ビジュアライズが本当に力を発揮するのは、たぶんそこから先なんだと思いました。
ただ「きれいに描く」だけではなく、描いたものを手がかりにして、問い直し、揺らし、更新していく。
そのためには、批評ができる関係性が必要になる。

大事なのは、批評そのものよりも、その背後にある意図と関係性だと思います。
相手を下げるためではなく、場をよくするため。相手を守るためではなく、可能性を開くため。
そういう土台があれば、フィードバックがもらえる環境は、とてもありがたい。

そうやって実践が往復し、言葉が磨かれ、態度が共有されていくことで、業界は成熟していく。
私も、たとえガラスのビーズみたいに小さくても、何かを置いていける側でありたい。
今日のこの記事が、その一歩になればいいと思ってエイっとだしてみます。

最高の未来/最悪の未来を往復しながら、軸足を探した

こんな再考な未来になったらいいなと願いを込めてシェアする

参加者で「最高の未来」と「最悪の未来」を語り合う時間がありました。

私にとって最悪な未来

2026年現時点で考える私の描く最悪な未来

・「もう考えなくていいか」と思考が鈍る人が増える
・プロッキーなどの文房具がなくなり「書く」という行為が消えていく
・決まっていないのに決まったこととして扱われる、“直線的な社会”

私にとって最高な未来

2026年現時点で考える私の描く最高な未来

・「それ違う」「こうじゃない?」とアイデアが湧く
・生き物が生き物らしく扱われる
・じわっと沁みるあたたかさがある、“曲線的な社会”

最高の未来と最悪な未来、どんな立ち位置で眺めている?身体位置で表現しているワーク

この往復の中で、私は「どこに軸足を置き、どうバランスを取るのか」という種を植えてもらった気がします。

見えない価値を残すために、失ってはいけないラインは何か

笹本玲緒奈さんがグラレコをしてくださる中、みんなで問いを真ん中に置いて対話した

午後の対話パートでは、会場に戻って輪になりながら、こんな問いに向き合いました。

「ビジュアルプラクティスの“見えない価値”って何だろう?」
「最悪な未来を防ぐために、私たちが失ってはいけないラインはどこにあるんだろう?」


話しながら、 “最悪な未来”は、誰にとっても最悪とは限らない。
人によっては、それが“最高の未来”に見えることもある。
だからこそ、単純に断じたり、線を引きすぎたりすることにも、慎重でいたいと思いました。

そんな中で、私の中に浮かんできた問いは、意外と小さく、個人的なものでした。
「私は、半径何メートルくらいで、この“ビジュアルプラクティショナー”という役割を握り続けられるんだろう」
「誰と、どんな糸を握り合えるんだろう」
守りたい気持ちと、広げたい気持ち。 その両方が、同時に湧いていました。

笹本玲緒奈さんが描いてくれたグラフィックレコーディング(抜粋)

業界として成熟していくためには、勝手に描く“やばい集団”にならないためのリテラシーも必要だと思う。
一方で、リテラシーだけを守ろうとすると、怖さから動けなくなることもある。
描くモチベーションを保ちながら、どこに線を引き、どこを開いていくのか。
そのバランスの取り方こそが、これから問われていくのだと感じます。

書けば書くほど、そのロールを自分が引き受けていけるのか、不安にもなります。
それでも、文化として残していくなら、一定の“ベースメント”戻ってくる場所、基準は必要になる。

リテラシーに軸足置きつつ、ピボットしているイメージ


軸足を置く場所があるからこそ、それぞれの実践領域でピボットできるし、少しずつ描ける範囲も広がっていく。
その先に、ビジュアライズの可能性がもっと開かれていくのかもしれない。
この時間は、そんな希望を、うっすら手触りとして残してくれました。

そして、原さんのリストーリーが素晴らしくてじーんと感動しておりました。。(私もこんなふうに話してみたい憧)

私たちはAIに何を食べさせるのだろうか?

そしてこの“失ってはいけないライン”は、AIの話題とも深くつながっていきました。

この日は、人が描くことと、AIが描くことの対比が、何度も立ち上がっていました。

たとえば、NotebookLMのようなツールが登場し、インフォグラフィックや要約図がこれまでより簡単に生成できるようになった。

ビジュアライズの可能性が、より多くの人に開かれていく期待感は確かにあります。

「描ける人」だけのものではなくなっていくことは、私は前向きに捉えたいと思いました。

一方で、その広がりと同時に、問い直されるものがある。

それは「人が描くことの意義」です。

AIは速い。整っている。見栄えもいい。

でも、ビジュアルプラクティスが本来扱ってきたのは、見た目だけではありません。

・複雑なものを複雑なまま扱うこと。

・書き手という存在が、場に及ぼす影響を引き受けること。

・その場の人たちと双方向に、インタラクティブに、意味を育てながら“共につくる”こと。

つまり、AIと人の差が出るのは「何を描けるか」よりも、

どんな場で、何のために描くのかという意図の設計と、

そこで起きている関係性や空気をどう扱うか、という領域なのだと思いました。

私の中に残った問いは

私たちはAIに、何を食べさせるのだろう。

結果だけを食べさせるのか。

それとも、その場の空気、声色、躊躇、違和感、関係性の揺れといった、人間の営みの延長線上にあるものを、どう扱うのか。

便利さのために括ってしまうのか、複雑さを保ったまま渡していくのか。

そして、その選択は私ひとりでは決められない。

ハーベストの意図――「何を収穫し、何を次に手渡すのか」を、場の人たちと握り合う必要がある。

AI時代だからこそ、その合意形成そのものが、ビジュアルプラクティスの真ん中に迫っていく気がしました。

この問いは、頭の中で考えるだけでは足りない気がしています。

描きながら、動かしながら、場の中で確かめていきたい。

そんなふうに思ったのも、この日の収穫でした。

まず、括りすぎないための“余白”を、描きの中に残すことから始めたい。

すぐに結論を出すためでも、分かりやすくするためだけでもなく、

まだ言葉になりきらない違和感や、揺れている問いが、

そのままそこに居続けられる余地を残しておくこと。

描くことを「整えるための道具」に閉じないで、

対話が続いていくための器として、使い続けていきたい。

AIと共に進む時代だからこそ、その姿勢だけは手放したくないと思いました。

最後に。「ビジュアルプラクティスって、良いこっせん?」

最後に。
この1日を通して、私の中に残った感覚を。

宮崎には「こっせん」という方言があります。
「これ、きっと相手にも伝わる」
「相手もおいしいと感じてくれるはず」
そんな手応えがあるときに使う言葉です。

自分だけの好みではなく、
誰かと分かち合える感覚があるかどうかを確かめる言葉。

この公開リサーチデイを通して、
私は何度もその「こっせん」の感覚を思い出していました。

ビジュアルプラクティスは、
派手さやスピードで評価されるものではないけれど、
複雑なままの思いや、言葉になりきらない違和感を、
「ここに置いていいよ」と差し出せる営みだと思っています。

それはすぐに成果が見えるものではないし、
人によって受け取り方も違う。
でも、ちゃんと人と人のあいだに残っていく。

だから2026年時点の私は、未来に向かってこう問い続けたい。

ビジュアルプラクティスって、良いこっせん?

この感覚を信じられる場や関係性を、
手応えを感じながらこれからも少しずつ育てていきたいと思いました。

このような場を開いていただき、ありがとうございました!

#vpリサーチDAY2026

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次